シカゴ交響楽団(CSO)の事務局長ヘンリー・フォーゲルが、こうした朝比奈の演奏に接したのは、1991年10月のことだった。高名な音楽評論家でもあり、「日本指揮者コンクール」の審査員として来日していたフォーゲルは、その時期に偶然行われた「オール・ジャパン・シンフォニー」(日本の各オーケストラから集まった奏者による臨時編成の祝祭管弦楽団)の公演に招待される。この日、病気休養から復帰した朝比奈は、後半の『アルプス交響曲』を指揮することになっていた。
「私は朝比奈の名も知らず、病み上がりの彼がそろりそろりと舞台に登場しても何の期待も抱かなかった。ところが、ひとたび指揮台に立つと朝比奈はオーケストラを完全に掌握し、私はそのゆったりとしたテンポからつむぎ出される音楽の見事な構成力と美しさに愕然とした。彼の年齢と健康状態からして、CSOへの招聘などさらさら考えなかった私だが、その後朝比奈の指揮したCDを買いあさり、すぐに私は、“あの日の演奏はまぐれではなかった”ことを確信した」(フォーゲル)
3年後の94年7月、再びコンクールの審査員として来日したフォーゲルは、朝比奈=大阪フィルの東京公演に招待され、ブルックナーの〈8番〉を聴く。
「この日の朝比奈は、舞台に登場したときから尋常ならざるエネルギーに満ちていた。そして演奏は、私が過去に聴いた数あるブルックナーのなかで、もっとも気高く、心温まるものであった」(同)
興奮したフォーゲルは、終演後の楽屋に駆けつけ、86歳の誕生日を迎えたばかりの巨匠にシカゴ行きを懇願する。朝比奈は熟考の末シカゴ行きを決意、フォーゲルの配慮により、もっとも気候の穏和な96年5月16、17、18日の3日間にわたってに行われる、シーズン最後の定期演奏会に客演することが決定した。曲目はもちろんブルックナー。当初は〈8番〉が予定されていたが、CSOの音楽監督ダニエル・バレンボイムが〈8番〉の演奏を希望したことから、最終的には〈5番〉に落ち着いた。
これまでベルリン・フィルをはじめ、ヨーロッパ各地のオーケストラには数多く客演していた朝比奈だが、アメリカのオケへの出演歴はホノルル響のみ。ブルックナー没後100周年のメモリアル・イヤーに、朝比奈はアメリカ本土デビューを果たすことになったのである。しかも、全米ナンバーワンといわれるCSOの定期演奏会に、当地ではまったく無名の老指揮者がいきなりデビューする、というのは異例のことであった。
朝比奈にとってブルックナーの〈5番〉は十八番ともいうべきレパートリーだが、初顔合せのシカゴ響が朝比奈の意図する音楽を充分に理解できるのか、また朝比奈のブルックナー解釈がアメリカの聴衆に受け入れられるのか、87歳という高齢をおしてのシカゴ行きは、朝比奈本人にとっても、事務局長フォーゲルにとっても、大きな賭けであったに違いない。
さて、マエストロ朝比奈がシカゴに到着したのは、リハーサル4日前の5月10日。時差による体力の消耗を避け、ゆったりと調整しようという作戦である。今回の客演には、マネージャー2名のほか、町子夫人、長男の朝比奈千足夫妻、義妹夫妻が同行したほか、ほとんどのマスコミ取材がシャットアウトされ、マエストロがリラックスして滞在できるよう、細心の配慮がなされた。
朝比奈を迎えるCSOサイドの気の使いようもただならぬものがあり、フォーゲルは事前に楽員たちをオフィスに招いて朝比奈のCDを何度も聴かせたり、自身がDJをつとめるクラシックFM局の番組で、数回にわたって朝比奈のCDを紹介したばかりでなく、CSOの聴衆に配布されるプログラムで、事前に朝比奈の人と音楽を紹介するなど、この未知の巨匠への理解を深めようとさまざまな準備が続けられていた。こうした一連の動きに対しては、「フルトヴェングラーの再来の如きバカ騒ぎ」(シカゴ・トリビューン紙)という一部マスコミの醒めた見方もあったが、前評判は高く、3日間にわたる公演のチケットは早々にソールド・アウトとなったのである。
そうしたなかで、筆者はとくに2日目(15日)のリハーサルから参観を許されて、演奏会場のシカゴ・オーケストラホールに赴いた。
CSOの本拠地であるシカゴ・オーケストラホールは、1904年に建設された古い建物で、ミシガン通りに面して建つそのさまは、一見するとオフィス・ビルのようである。チケット・ボックスなどがある狭いロビーからは、ドアのガラス越しに1階の後部客席と舞台がすぐに見える。14時30分からのリハーサルだが、14時にはもう何人かの楽員がやってきてウォーミングアップを始めていた。
CSO定期の場合、練習はわずか2日間。30分の休憩を含めて1回2時間半のリハーサルが2回と、演奏会当日のゲネプロ(通し稽古)というわずかな時間で、指揮者がオーケストラを完全に掌握しなければならない。とくにアメリカのオケはユニオン(組合)の力が強く、リハーサルは1分たりとも延長することはできないので、初出演の朝比奈がどのようにその“音楽”を伝えるのか、興味と不安が入り交じる。
定刻3分前に舞台の照明がいったん暗くなり、これがリハーサル開始の合図。前日は1楽章と4楽章を練習したとのことで、この日は2楽章、3楽章の練習となった。冒頭、フォーゲル事務局長がファゴット副主席奏者の逝去の報を楽員に伝え、黙祷ののち練習が始まった。
オーケストラが演奏を始めてまず驚かされたのが、響きの豊かさである。この古風なホールの音響自体はかなりデッドで、当世の日本で流行している「残響2秒」とは対極をいくものだが、これがオーケストラの実力というものなのだろう、倍音が豊かに響き、濁ることがない。朝比奈も、さすがにふだんより肩に力が入っている様子で、弦セクションを中心に、最初は何度も演奏を止めながら英語で指示を与えていく。
15分ほど経過すると、原則的な指示をひと通り済ませた朝比奈は、オーケストラをほとんど止めず、流れを重視した練習に切り替えていく。途中、きな臭いにおいが漂い、練習が中断されるというアクシデントに見舞われたが(のちに改装中の天井工事が原因と判明)、かえって朝比奈はリラックスした様子で弦のトップ奏者となにごとか打ち合わせていた。
朝比奈の音づくりの基本は、低弦でしっかりと基礎をつくった上に、一音たりともゆるがせにせず響きを構築させていくことにある。その手法はここシカゴでも変わらず、“自分の役割”をわきまえ、優れた技量をもったオケのメンバー一人ひとりから導き出される響きは、まさに朝比奈が理想とするものであった。それだけに、朝比奈の音楽性そのものが真正面から問われることにもなるわけだが、武骨ながらスケールが大きいマエストロの音づくりが理解されていくにつれて、コンサートマスターのサミュエル・マガドや首席トランペットのアドルフ・ハーゼスなど、アンサンブルの要となる“うるさ型”の奏者たちを中心に、朝比奈への共感は確実にひろがっていった。
休憩後の3楽章はこの曲中最大の難関で、オーケストラにとって、朝比奈の意図する急激なテンポの変化を理解し、音にしていくのは至難の業であったに違いない。朝比奈の棒はよくも悪くも”出たとこ勝負”の部分があり、メトロノームの如く正確にテンポを刻むのではなく、オーケストラの響きや勢いに合わせて即興的に盛り上げていく傾向が強い。それゆえ、日本のオケ奏者からは、時として「こんな棒じゃわからん」などという批判を受けるわけだが、朝比奈の意図するところを懸命に汲み取り、見る見るうちにティンパニが芸術的にテンポを決めていくあたりは、さすが超一流のプロ集団であった。
コンサートは午後8時からだったが、7時からは恒例の「プレ・カンバセーション」が行われた。これは、その日の演奏会や曲目に関する話題を、出演者、作曲家や音楽評論家、事務局スタッフなどが解説するもので、今回の演奏会ではフォーゲル事務局長がその任にあたっていた。30分にわたるトークの中心はブルックナーの〈5番〉に関する解説だが、フォーゲルは朝比奈=大阪フィルのCDを使いながら説明、もちろん朝比奈の人と音楽についてもユーモアを交えながら触れて(『ブルックナーの〈8番〉を振り終えたマエストロに楽屋で会ったときなんですが、なにしろ86歳でしょう、だから「お疲れでしょうからお掛けください」と椅子を勧めたんですよ。そうしたら朝比奈さんはね、「立っているのは私の仕事だよ(Standing is my occupation!)」ですって……』)、聴衆に朝比奈芸術を理解してもらおうと熱心に語る様子は印象的だった。
初日(16日)の舞台は、NHK収録用のTVカメラがずらりと並んだ上に、冒頭、逝去したファゴット奏者を追悼するため、コンマスの指揮でバッハの「アリア」が演奏されたため、一種異様な緊張感に包まれた。聞くところによると、ふだんの演奏会ではまったく緊張しない朝比奈も、この日ばかりは明らかに高ぶりを見せていたという。
ゆったりと登場する朝比奈。その堂々とした姿に、聴衆から感嘆の声が漏れる(私の隣のボックスに座っていた老紳士は、「なんて美しい白髪なんだ……」と連れの夫人に語りかけていた)。
振り下ろされるタクト。その後の80分にわたるドラマについては、私が駄文を並べるよりも、夏に放映されるNHKのビデオをご覧になるほうが実感できようが、指揮者、オケ双方とも最初は多少の慎重さが感じられたものの、次第に調子を上げ、リハーサルでは不安の残った3楽章の目まぐるしいテンポの変化にもオーケストラはよく従い、ブラス・セクションがその能力を全開して輝かしい終楽章コーダの頂点を築き上げた瞬間、当地では異例のスタンディング・オベーションとなったのである。その興奮と感動ぶりは、フォーゲルに「シカゴ響の長い歴史の中でも特筆すべき、記念碑的な大演奏」と言わしめたほどであったが、この日はまだ初日。この先何が起きるかわからないのが「朝比奈流」なのだ。
ホテルのバーで、大阪フィルから同行したマネージャー、シカゴ在住の友人と祝杯をあげ、夜も1時近くなったのでそろそろ引き上げようか、と腰を上げたところ、何やらにぎやかな声が聞こえてきた。なんと、朝比奈御大がご家族を従えて別のバーからご帰還だったのである。指揮をしてクタクタどころか、意気揚々だ(この7月には88歳! もうこうなると超人の域に達している)。ご挨拶とお祝いを申し述べると、こんな感想が返ってきた。
「まったく素晴らしいオーケストラで、大変立派な演奏ができました。3日目にはシカゴの総領事が来てくださるそうで、大変有り難いことです。なにしろこちらは帝国を代表していますからな(笑)。いや、うまいオーケストラはやはりいいですよ」
まったく、すぐ笑いをとろうとする、いつものオッサンそのものである。ともあれ、マエストロは絶好調のようであった。
結論から先に言おう。2日目(17日)の演奏は、この世のものとは思えない、入神のブルックナーであった。こうした瞬間に立ち会えたこと、いや、朝比奈先生と同時代に生きることができたのは、私にとって一生の宝である。
この日はオケ、指揮者ともにリラックスしたムードと集中力をバランスよく保ち、客席から見ていると、朝比奈先生のタクトの先から何本もの閃光が発せられ、オーケストラのプレイヤーにその力が伝わっていくような瞬間が幾たびも感じられた。
第1楽章からオーケストラは絶好調で、朝比奈が求める微妙なテンポの揺れにしっかりとついていく。第2楽章の弦楽合奏による第2主題のカンタービレも、前日よりゆったりしたテンポで綿々と歌い上げ、聴衆の大きな感動を誘った。第3楽章スケルツォの見事な緩急、そしてフィナーレのフーガも堂々とした足取りで、朝比奈は、私たちがこれまで機能的だと考えてきたシカゴのオーケストラから、実に人間的な、暖かくも輝かしい響きを導き出したのである。それはまさに、神業ともいうべき理想的なブルックナー演奏であり、演奏時間は前日より実に5分も遅い85分。これまでの朝比奈〈5番〉演奏歴でも、おそらく最長不倒の記録である。とくに、フーガの遅さは前代未聞であったが、まったく緩みを感じさせず見事に大伽藍を構築したのだった。
ホールを包む興奮は前日にも増すもので、「冷たい」と言われるシカゴの聴衆が送る暖かい拍手からは、単なる「敬老精神の発露」以上のものが確実に感じられた。そればかりではない。コーダの最後の和音が鳴り響いた瞬間、チェロの若き首席奏者ジョン・シャープの目には、涙を浮かんでいたのである。
この演奏で朝比奈は、シカゴのオーケストラ、聴衆双方の心を、がっちりとつかんだのである。87歳の朝比奈は、賭けに勝ったのだ。
これを見た朝比奈御大は悠然としたもので、「おっ、写真がでっかく出ている」と喜んでいたとの由。さすがにフォーゲルは腹に据えかねたらしく(『トリビューン』の批評子とフォーゲルは犬猿の仲だという。この悪評も、フォーゲルが朝比奈に入れ込んでいることへの反発らしい)、最終日のプレ・カンバセーションでこんな話を披露した。
「新聞はあんなことを言ってますがね、さっきボックスオフィスで、50年来ずっと木曜日のボックスシートの定期会員でいらっしゃる某紳士にお会いしたんですよ。『あれ、きょうは土曜なのにどうしたんですか?』とお聞きしたら、彼はこう言ったんです。『いや、どうしてももう一度聞きたくなってね。同じプログラムを2度聞くのは、ブルーノ・ワルター以来だよ』」
さて、ここまでお付き合いいただいた読者諸兄諸姉は、どんな結末を期待しているだろうか? 最終日は前日以上の驚異的な演奏をやってのけたのだろうか?それとも大チョンボをやってしまったのか?
では、お答えします。
「いつも通りのオッサンやった……!」(大阪フィル合唱団指揮者・岩城拓也氏)
この日はさすがに疲れが見えて、オーケストラにもミスが目立ち、先生もなんとか取り戻そうとテンポを大きくいじったりと、まさに大阪フィルの演奏会のようなな悪戦苦闘ぶり。そしてとうとう4楽章に突入、どんどんと時間は過ぎ、うーん、このまま終わってしまうのか、と諦めかけたそのとき、オッサンの背中から「しゃーない、いっちょやったるか」というサインが発せられたかと思うと、オーケストラは突然血相を変えて弾きはじめ、火の出るようなコラールに突入したのである。これぞ朝比奈隆の本領発揮、フィナーレだけ比較すれば、これがいちばん凄かった。事実、聴衆の反応はこの日が最高だった。総立ちの聴衆に応え、オーケストラのメンバーを讃える朝比奈。千両役者の貫禄である。
終演後、オーケストラの若手クラリネット奏者と食事する。「朝比奈サンはどうだった?」と問いかけると、「女房(ヴァイオリン奏者)は『たいくつね』って言ってたけど、ぼくはすごく感激したよ。彼はテンポ感とフレージングがとてもしっかりしていて、音楽をよくわかってる。またぜひ一緒に仕事をしたいね」。
そして、またも深夜のホテルのバーで謁見。3日間の演奏を終えたマエストロ朝比奈は、満足げにこう語った。
「すばらしいオーケストラで、大変立派な演奏ができました。メンバーひとり一人が実によくやってくれた。まあ、長生きしたからこそ、できたんですな」
そう、『一日でも長く生きて、一回でも多く舞台に立て』という師メッテルの教えを愚直に守り、その生涯をオーケストラに捧げてきた男に、神はシカゴ交響楽団というとびきりのオーケストラを与えたのである。
このところの朝比奈は、日本のオーケストラにおいて、時に「奇跡」としか言いようのない驚嘆すべき演奏を聴かせてきたが、この世界の頂点に立つ名門オーケストラにおいても、朝比奈は「奇跡」を呼び起こした。
そしてことし10月、朝比奈は異例の招聘を受けて、再びシカゴの指揮台に立つことになった。曲目はブルックナーの交響曲第9番。日本が生んだ我らがマエストロは、果たしてどこまで登りつめていくのだろうか−。