特別インタヴュー(Jan.29,1997)
Rena Bransten
リ ナ ・ ブ ラ ン ス テ ィ ンギャラリー経営
サンフランシスコ在住
聞き手:サイ姫
Questions' INDEX
■育った環境について
■起業の契機について
■女性の画廊経営者について
■サンフランシスコとニューヨークの市場性について
■バブル経済の影響について
■アートディーラー生き残りの秘訣について
■母子2代のギャラリー経営について
■アーティスト選定の基準について
■新進気鋭のアーティストについて
■教育現場のアーティストについて
■今後の現代アートの市場について
■最も印象的な出来事について
■小さい頃から美術に囲まれた環境で
お育ちになったということですが…私が育った頃、父は熱心に稀少本(聖書の手書き草稿)の蒐集をしていて、それが高じて、ニューヨークのモーガン・ライブラリーの理事を務めたりもしました。でも、どちらかというと、私は稀少本には興味がなかったの。何しろ、革新的なハイスクールに通っていて、ルフィノ・タマーヨ(画家。現代美術の巨匠の一人)が美術を教えていたようなところだったし……私自身、絵を描くのが好きだったのね。
それからスミス・カレッジ(※訳註 格式が高いことで知られる東部の名門女子大)へ行って、どうやら自分自身が画家になるのは向いていないんじゃないかと思って……結局、美術史専攻ということで落ちついたのです。もともと歴史には興味があったし、スミスの美術史コースは、素晴らしいプログラムだったので。そのまま大学院で美術史の研究を続けようと思っていたのですが、結婚することになり、1954〜5年は東京で暮らしました。
当時の夫は、というか、その両親は、まだまだサンフランシスコが保守的だった頃には珍しい、アメリカ現代美術を蒐集しているコレクターの一人でした。よく、友人たちに「あなたの義理のご両親、集めていらっしゃる絵の天地が間違っていないって自信がお有りなのかしら」なんて、からかわれたものです。ひどいもんだったわ。でも、彼とは、よく色々なギャラリーや展覧会を一緒に見に行ったものです。まだ、ギャラリーの数も少なかったですし……。
自分で作品を購入するようになって、アーティストたちとのおつき合いもするようになりました。それから他の街のギャラリーも見に行くようになって。
■美術のお仕事をされるようになったきっかけは?二十年ちょっと前になりますけど、時々作品を購入していたディーラーの女性に「興味があったら、一緒にギャラリーをやってみない」って誘われたわけです。それで、アートのビジネスを始めることになったのね。最初は、ベイエリアで活動をする、現代陶芸の作家だけを扱うギャラリーだったのですが、やっぱり、それだけでは飽き足らなくなってしまって……。
結局、80年代に独立して、自分一人のスペースを持ち、今は絵画や彫刻、写真、インスタレーションなど、幅広い分野の作家を扱っています。ギャラリーの経営者であるということは、世の中の動きに取り残されないよう、いつも気を張っていなくてはならないから、とても大変であると同時に、やりがいもあるわね。
■女性の画廊経営者ということですが…アメリカでは文化的なことに女性が関わる伝統みたいなものがあって……何人も、有名な経営者がいましたね。それと、私の場合、ホイットニー美術館(※訳註 大富豪で女流彫刻家の草分けでもあったガートルード・ヴァンダービルト・ホイットニーが創設した美術館)の影響が強かったと思うの。現代のアメリカ美術のコレクションというコンセプトがとても魅力的で。
素晴らしいアーティストを紹介している立派な女性の画廊経営者が何人もいたのは事実ですが、だからといって、私がそれに憧れてギャラリーを始めたというわけではなく、唯一このビジネスに興味を惹かれたから……そして、それしかできることがなかったからというのが本当のところだと思うわ。
■サンフランシスコの市場は
ニューヨークとは違いますか?なんと言っても、サンフランシスコはニューヨークやロサンゼルスと比べたら小さな街ですから……。それでいて、サンフランシスコのアート・シーンはいつも活気に満ち溢れているのね。大きなムーブメントが起きる時でも、イッキに押し流されて大平洋の一部になるというのではなくて、どちらかというと、潮溜りみたいに、影響を受けつつ独立しているという感じかしら。だから、この街でビジネスをやるのには、フィギュラティヴからミニマル、彫刻から写真作品まで、様子を見ながらフレキシブルな作品の見せ方を工夫することが必要だと思います。
一方、市場が大きく、ギャラリーどうしの競争が激しいニューヨークでは、各々のギャラリーが専門分野に特化して目立つ努力をしなくてはならない。市場に強いインパクトを与えなくてはならないから。それに比べると、ここのギャラリーの見せ方は、少しずつ、色々っていうスタイルね。少なくても私の目にはそう見えるわ。
■バブル経済がアーティストと美術市場に
与えた影響をどう御覧になりますか?バブルは、様々な要素が複雑に絡みあって起きたことだとは思いますけれど……。もともと、アートというものは、教会や王侯貴族が絶大な権力を持っていた時代から、ファッションとしての要素を持っていたと思うのね。王様や教皇だって、いつも流行の画家や彫刻家を追い求めていたわけで、全く無名の人に作品を作らせたりはしなかったでしょう。だから、「アート」がファッショナブルな商品扱いを受けるということは、人類の歴史の中では珍しいことだとは思わないけれど、80年代はそれがとても顕著だったということは事実かもしれません。
特に、今までは現代美術を扱うギャラリーと競合することなどなかったオークション・ハウスが、投機目的で現代美術を買う人たちのセールを手がけるようになったため、前の年にギャラリーで購入した作品を次の年にオークションにかけて、前年比40%増しの価格をつけるなんていうことがまかり通るようになってしまったのです。もともとオークションには、売買されて、しばらく経ったものしか出なかったものなのに、その暗黙の了解が崩れたのね。で、オークションに出せば高い値がつくとわかれば、大勢の人がその方向へ流れるから。でも、私自身、好きで絵を買いますけど、お金儲けのために買うわけじゃないから、すぐ様オークションにかけるなんていうことは、したことないわ。
バブル崩壊で美術市場に大打撃だったと言われるけれど、それは、やはり、無理に市場を肥大化させていた、その膨れた部分で起こったことだと思います。値段だって、確かに一度はがっくり下がったかもしれないけれど、本当に価値のある作品が不当に低い値段で取り引きされることなんて有り得ないし、もし、あったとしても長続きはしません。優れたアーティストというのは、必ずや人目につくものなのです。
■アートディーラーとして、
生き残りの秘訣について…いろいろあると思うけど……。まず、活気のある、いい企画展を続けていくこと。そして、自分は経営者であり、ビジネスをしているのだという自覚を持つこと。アーティストに対しても、顧客に対しても、いつも正直であること……かしら。
アーティストに対して誠意ある対応をすることはとても大事で、金銭面も含めて、いつもきちんと接していれば、彼らが他のアーティストに「あそこのギャラリーは信頼できるから展覧会をするのに安心だ」と宣伝してくれるのね。もちろん、顧客に対しても信用は第一だけれど。で、彼らの噂話は美術館関係者にも届くものなのね。
あとは、少しばかりの幸運が必要かしら。私の場合は、とても恵まれていて、本当に優秀なスタッフがサポートしてくれていますけれど……。
■お嬢さんがギャラリーで一緒に
仕事をされるようになった経緯は?彼女は、大学での専攻は数学だったのですが、ある時、ギャラリーにあった作品の一つが気に入って、「どうしても買いたい」というので、「それだったら、お金は払わなくてもいいから、少しここで手伝ってみたら?」と進めたのです。そうしたら、水を得た魚みたいで……。アートを扱うビジネスに根っから向いていたみたいですね。
それから、私は「コンピュータを入れるギャラリーの第一号になるワ」と宣言して、その頃はギャラリー用のシステムやソフトウェアなんて、まだ存在していなかったから、いろいろなものを試して大変な目にも会いました。でも、万が一、ギャラリーが潰れた場合、スタッフのみんなは何とか食べて行かれるだけの技術を身につけられるんじゃないかと思って……。老婆心から考えたことなの。
一緒に仕事をしてきた人たちが若かったということは、このギャラリーをやっていく上で大変プラスになったと思います。なぜなら、アートは刻々と変化していくもので、今のコンテンポラリー・アートが将来どういう風になっているかを予測するのは、とても困難だからです。若い人たちがスタッフに居ることで、ギャラリーも彼らと共に成長することができたのではないかしら。
■アーティストを選ぶ基準については…二十年以上もギャラリーを経営していると、ずいぶん、アーティストの知り合いも多くなりますから……。でも、基本的には、なるべく多くのアーティストの作品を見るように、いつも心がけているわ。オーストラリアまで出かけて行って展覧会をしようと決めたこともあるし……。
いきなり個展をすることはなくて、まず、今まで扱っているアーティストと組み合わせを考えてグループ展をやって様子をみます。グループ展の見栄えを良くする必要上、さらに一人、二人組み合わせた方が良いと思う場合は、そのためだけに新しいアーティストを加えることもあるし。それから、徐々に個展をするアーティストを決めていく。
■日本では「若い」ということを売りにして、画廊が 学校出たてのアーティストの個展をすることがあります。 こうした、まだ成長の途上にある人たちをいち早く 市場に出してしまうことについて…「若い」ことを売りにするのは、なにも日本に限ったことではないと思います。イギリスも含め、コンテンポラリー・アートの市場が存在しているところはどこもそういう傾向が見られるでしょう。
私も過去に若いアーティストと付き合って展覧会をしたことがありますが、人生経験のあまりない彼らには、2〜3年もすると資源が枯渇してしまうといった傾向が見られるようです。学校で学んだことを全て使い果たしてしまうのでしょうね。そうすると、早くに成功した若者は、「オレ、もういいわ」といって、あっさり制作をやめてしまうことも多い。
私の場合は、いろいろな意味で、学校出たてのアーティストは、避けたいですね。
■逆に「若くない」アーティストの場合、学校で教えることを通じて若者から刺激を受けることも多いと思いますが…刺激を受けるため、だけではなく、アーティストというのは孤独な職業ですから、何らかの帰属意識の持てる場所があることは、時々、孤独を癒すために必要かもしれませんね。似たような環境に属する人たちのコミュニティとでもいうのかしら。それは、アーティストにとっても大事だと思います。
■今後、コンテンポラリー・アートの市場は
どのように変化していくとお考えですか?今、インターネットでアートを見るとか、コンピュータを使って可能になっていることが色々とありますよね。でも、どんなに新しいテクノロジーが出現しても、アーティストがいて、コレクターが存在する限り、アーティストが生み出した作品をコレクターが購入するという、今のありかたが変わるとは思えないわ。
ただ、以前と比べると、アートの範疇に組み入れられる物の範囲が広がり、人の移動も盛んになったから、美術の市場が、なにか広大なものになってきているという感じはあります。世界中の人々が世界各国に出かけて様々なアートを目にしているわけですから。そういう社会構造やライフスタイルの変化がコンテンポラリー・アートに影響してくるということはあるかも知れません。それがどういうカタチで出るのか、はっきりとはわかりませんけれど。
■これまでのギャラリー経営のなかで、
最も印象に残っていることは?昨日のうちに前もって聞いておいてくれれば、何か考えたのに……。
そうね、ヴァイオラ・フライの大規模な個展が美術館で開かれた時、彼女の友人がその展覧会を見終わって、感動のあまり涙を流さんばかりにしているのを目にしたことかな。これは、作品の素晴らしさに感動したのと、友人がこれほど大規模な素晴らしい展覧会を美術館に開催してもらって誇らしく思うのとがないまぜになってのことだったのだと思うけど、人に涙を流させる力を持っているアートって素晴らしいと、その時に思いました。
長時間どうも有難うございました。
スタッフにもQ・U・E・S・T・I・O・N・!
■なぜ、ギャラリーで働くことを選んだのですか?ジムの場合:もともとは、UCバークレーで遺伝学を専攻していたんですが、人文系の選択科目で美術史をとったのが、そもそもの発端でした。特に、科学の勉強を続けることに不満があったわけではないのですが、授業を通じて絵画や彫刻と接するようになって、「視覚」から得られる情報が、実に多様で複雑なものであるのかに気づかされ、ちょっとした衝撃を感じました。
そして、「そういえば、子供の頃に見たアンディ・ウォーホールの展覧会は、人生の一大イヴェントだったな・・・」と思い出し、どんどん美術に興味を惹かれるようになって、とうとうバークレーはやめてしまいました。医学部に進んだ友人とか、みんな美術を勉強するのはいいことだと励ましてくれましたよ。で、結局、カリフォルニア芸術学院に入り直して美術史で学位を取り、卒業後すぐは、保険のセールスマンをしていたのですけど、ギャラリーに就職ができて、以来、ずっと美術業界で働いています。
エリザベスの場合:大学での専攻が文系で……だからといって、学校の先生にはなりたくなかったので、美術、音楽、文学の中から、一番好きな美術史を選ぶことにしたのです。で、それならば、美術館かギャラリーで仕事をしたいなぁと思っていました。それからサンホゼ美術館でインターンを経験して、美術館の仕事というのは、一日オフィスにいるわけだから、普通の会社勤めと余り変わらないかなと思って、結局、ギャラリーで働こうと決めたのです。美術は特にどの時代のアートが好きというわけではなく、特に、コンテンポラリー・アートは沢山見ないとわからないですけど、学生の時はそんなに知らなかったので、美術ならなんでも興味があります。で、サンホゼの後、ここで採用されて、以来、ずっとここにいるわけです。
コルバートの場合:もともとはアーティスト志望だったんですが、アーティストで食べて行くのはムリかなと思って、短大では英文学専攻でした。でも、結局、やっぱり絵を描きたくて美大に入って、それから修士まで取りました。リナがギャラリーをスタートした直後、私はまだ大学院に在籍していたのですが、その頃からここでアルバイトを始め、以来ず〜っとここで働いているのですが、時間が経つにつれて、自分の作品を作る時間がどんどん減って行き、逆に、アーティストのために働く時間が増えてきたみたいですね。で、そうこうしているうちに二十年以上たっちゃったっていうわけです。二十年前には、まさか将来こんなことをしているだろうとは、夢にも思わなかったですけれど。