評価されない偉人、山田耕筰
トキ
「ツルカメ・エクスプレス」による激烈な攻撃を察知したのか、『GQ』は突然誌面をモデルチェンジし、浅田彰氏執筆の音楽評は姿を消してしまった。
もちろん、過去のバックナンバーにさかのぼって突っつき続けてもいいのだが、それではタイムリーな話題を紹介できなくなる恐れもある。そこで今回は、まずどこの音楽雑誌でも取り上げそうにない、だが、日本人と西洋芸術という問題を考える上で非常に重要な、このHPならではのCDについて言及してみよう。この春、日本コロンビアより復刻発売された、『山田耕筰の遺産』全14巻である。
1996年は、山田耕筰の生誕110年にあたる。日本を代表する作曲家であり、日本における西洋音楽の基盤を、超人的な活躍によってほとんど独力で築き上げたこの“巨人”が、なぜかくも我が国において過少評価されるのか。それは、日本における音楽史学(あるいは批評)の世界が抱えている宿痾をまさに象徴している。
1886(明治19)年に生まれ、日本にオーケストラのオの字もない時代にベルリンに留学した山田は、作曲を学んでわずか数年後の1912(大正元)年に、日本人としてはじめての交響曲「かちどきと平和」を書き上げる。18、19年にはカーネギー・ホールでニューヨーク・フィルを指揮、自作を披露した、24年には日本で最初の本格的職業オーケストラ「日本交響楽協会」を結成する一方、北原白秋とのコンビで夥しい数の歌曲を次々に発表、また映画、ラジオ放送などの新しいメディアに積極的に関与し、日本人の音楽生活を根底から塗り替えるほどの働きを続ける。しかも,オーケストラ運動を本格的に開始した24(大正14)年には、余技の星占いの本をあの実業之日本社から出版しているというのだから(『生まれ月の神秘』)、驚きを通り越して呆れるほどである。
これだけの仕事をした山田が貶められるのは、戦時中の行状、そして派手な私生活がいまだに人々の反感を買っているからだ。第2次大戦中、山田が率先して戦争遂行に協力し、軍服姿(将官待遇、といってもわからないだろうが、要はえらい軍人のこと)で戦地を視察して軍国歌謡をつくったり、統制団体の日本音楽文化協会会長に就任したことで、山田を「戦争犯罪人」呼ばわりする人は数多くいる。その代表が、戦後すぐに「戦犯論争」をしかけた音楽評論家・山根銀二だが、戦時中、「音楽報国」の名の下に統制団体を次々に組織していったのはなにを隠そう評論家どもであり、山根、そして堀内敬三はその中心人物であった。
保身の巧みな評論家とは違い、おっちょこちょいの芸術家である山田は、戦時中の行動についての批判に対して、「国を愛してやったことのどこが悪い」という態度をとってしまう。そのため、山田は楽壇における戦争責任を一身に押し付けられる形となり、左翼系知識人を装った評論家は自己を正当化するために、ますます山田を軽んじる、という図式が出来上がった。
音楽評論の世界におけるこうした歪んだ体制は、堀内敬三が音楽之友社のボスとして君臨したために、現在に至るまで改められることなく続いている(それが証拠に、これまで山田に関する評伝は、ただの1冊も出版されていない)。戦後も50年が経過し、「55年体制」が崩壊しつつあるいま、芸術家としての山田をきちんと評価すべきときが到来している。